近畿の城 一覧表|日本全国お城情報

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近畿 城リスト

小谷城(滋賀県東浅井郡湖北町)
1.小谷城の城主だった浅井氏といえば、亮政・久政・長政の3代が有名だ。朝倉氏と織田氏の対立によって滅亡への道を歩んだ浅井氏を見守った城である。

戦国時代、湖北地方を三代にわたり支配した浅井氏の居城が小谷城である。城は大きく三ブロックに分けられる。浅井家及び一族と家臣団が日常生活を営むため、谷間に形成された居舘と屋敬地からなる清水谷。

標高494メートルの大嶽と呼ばれる戦闘川の詰の城地区。そして広間、本丸を中心とした山城域である。この広大な川城に石垣が用いられるのは、三代長政の頃で、元亀年間(1870~73)と推定される。

この小谷城の石坦を築いた湖東の石工たちは、小谷城の南西、伊吹山の麓の近江守護京極氏の舘に、石垣と素晴らしい立石からなる庭園をもたらした石工たちである。彼らは、のちに羽柴秀吉が築く長浜城、丹羽長秀が築く佐和山城、そして信長が築く安土城の各石垣普請に多大な貢献をするのである。

園部城(京都府船井郡園部町小桜町)
2.かわいいお城として女性に人気の城。城主小出氏は2万6700 石の大名であったが、無城主格のため陣屋しか備えられなかった。よって園部陣屋と呼ぶべき城である。

ここ数年園部を訪れていない人なら園部の変容ぶりに驚いてしまうだろう。なんと巨大な鉄骨コンクリート製の天守閣が、園部城の真ん前に交流会館という名で立ちはだかる。

初めて園部城を訪れる人なら、この巨大な天守閣風建物のある所が城であろうと勘違いしそうである。天守閣風建物が建っただけでなく、二十数年前までしっかり残っていた武家屋敷街なども、かなり姿を消してしまっているのは残念でならない。

園部城本丸は、府立園部高等学校となっている。本丸である門が高校服門として残り、櫓川に接して全国でも珍しい遺構の番所建築が残り、本丸南東角には巽櫓が二層で残存する。

この櫓門・番所・巽櫓を結ぶ形でかつての本丸土塀が残っている。とりわけ柵門仙方の坂道(かつての土怖)南側に残存する土塀はきわめて貴重な遺構だ。かつては右側にも土塀があって、この土橋(廊下橘)を往来して本丸に出入りする者を外部から見えなくしていた。

豊臣秀吉が没した伏見城
京都府京都市伏見区桃山町大蔵45番地
築城者: 豊臣秀吉
遺構: 堀

伏見城は、文禄元年(1592)から伏見桃山指月の丘に、豊臣秀吉が造り上げた自分の隠居所としての城といえます。桃山文化の粋を集め、豪壮華麗な殿堂を造り上げた名高い城ですが、1596年に起きた伏見大地震によって城は倒壊し、すぐさま2度目の築城が行われた。

同年、再び東方の勝山に築城します。しかし同3年8月18日、秀吉はこの城で没しました。翌年豊臣秀頼が大坂城に移ると、代わって徳川家康が入城し、秀頼の後見人として政務をとります。同5年関ケ原合戦の折、西軍の放った火で伏見城は炎上しました。

戦いの後、家康は伏見城を再建し、同8年の将軍宣下もここで受け、江戸に幕府を開いたのです。とはいえ、家康は将軍職を秀忠に譲って駿府に隠居するまで、ほとんど伏見で過ごしています。同11年に天守も再建されましたが、元利元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと伏見城は不要となり、同5年に廃城とされました。

寛永2年(1625)にはすべての破却が完了し、城跡には数千本の桃の木が植えられたため、桃山の名が起こったといわれています。昭和39年に天守が復興されることになりました。しかし、かつての本丸跡は明治天皇の御陵となっていましたので、やむなく復興天守は、旧伏見城お花畑山荘の地に建てられています。
内部には秀吉が造った黄金の茶室も再現されています。


舞鶴城(京都府舞鶴市南田辺)
JR西舞鶴駅の北側に石垣が見える。舞鶴城の石虹である。舞鶴城は宮津城と共に日本海に面した海城で、共に京極氏ゆかりの城である。宮津城は明治以降に徹底的に破壊されて見る影もないが、舞鶴城は石垣がよく保存されている。

舞鶴城の見どころは、天守台石垣と本丸に残る石垣である。水堀を伴って残る景観は、安土桃山時代とまったく同じだ。この天守台上に天守があがることは、ついになかった。石垣を築いたのは細川忠興だった。石垣は穴太式流落し枝みを源流とする戦国時代の技法の牛努積み、または笑い積みで築かれていた。


岸和田城(大阪府岸和田市岸城町)
3.天正11年(1583年)秀吉は和泉に中村一氏を入れ紀州を平定し、岸和田に小出秀政を入れた。小出氏とそのあとの松平氏で岸和田城は近世城郭に整備された。

岸和田といえば、だんじりの祭りが有名だ。山車は京の祇園祭りに古くから見られるが、地方都市の山車を競う祭事は、祇園信仰と結びつかないものが多い。だんじりのほか、江戸の山王祭りをはじめ博多・名古屋・川越などの山車を競う祭りは、全国城下町に実に多い。

山車の原型は、城中にあがる井楼矢倉に車輪のついた、いわゆる車井楼にあるといわれる。刑普請すなわち築城現場を家臆や郷村ごとに割り振り、競わせたことに、山車が競いあう原型があるらしい。築城と、山車が競う城下町の祭りは、大いに関係があるらしい。

寺院からの転用石の石垣大和郡山城
奈良県大和郡山市城内町
築城者:筒井順慶
遺構: 石垣、天守台、堀

4.大和郡山地方では、中世末期まで豪族たちが砦や陣屋を築いて互いに割拠して勢力争いをくり返していました。天正8年(1580)筒井順慶が織田信長の力を背景に、郡山の地に築城を始めました。

その後、豊臣秀吉の時代となり、秀吉は同13年9月に弟秀長に、大和・和泉・紀伊で百万石と称する封禄を与え、郡山に豪壮雄大な城郭を構築させました。

紀伊国根来寺の大門を移して城門とし、近在の石仏、石塔まで集めて石垣を築いています。天守台下にある「逆さ地蔵」はその一つであったものです。今日に見る郡山城跡の規模、遺構はすべて当時からのものとわれています。秀長は、城下町の整備と繁栄にも力を注ぎました。

この地だけに市を許したため、各地から多くの商工業者が移り住み、今日残っている堺町・奈良町・今井町などの名は、当時の先進都市から移った商人を示しています。また紺屋町・車町・鍛冶町などの町名は、すべて職業、商業の専有権にも相当するものを与えたなごりです。

江戸時代の城主は、水野勝成・松平忠明・本多政勝・松平信之ら、いずれも徳川譜代の功臣でした。享保9年(1724)から柳沢吉里が入封し二代信鴻、三代保光といういずれも著名な文人学者揃いの城主となりました。
現在城跡には、昭和58年から62年にかけて復元された追手門、追手向隅櫓などがあります。


近鉄橿原線に乗り、近鉄郡山駅近くを通ると、車窓に石垣と櫓が間近に迫って見える。古都奈良盆地になぜか不釣り合いに映ずる武骨な佇まいである。

この石垣と櫓・門は戦国時代末から桃山期にかけて古都奈良を押さえるため築かれた郡山城である。建物は大手門にあたる梅林門、追手向櫓、法印曲輪の追手東櫓で、いずれも復元された建物である。

郡山城は奈良盆地のやや南に位置する。南都(奈典)の守護職を與福寺が握っていたように、寺社宗教勢力は中世以降、大和支配を進める武家勢力にとって目ざわりな巨大な武力集団であった。この寺社勢力を押さえるため郡山城が築かれ、詰の城として高取城が存在した。


伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)
5.伊賀上野城といえば、名築城家藤堂高虎が徳川家康の意向を汲んで高石垣を組みあげて築いた名城として有名だ。地元で日本一と謳われる石垣も、このとき築かれたものである。今日、大小の天守台には、伊賀文化産業城と称する木造の模擬天守が建つが、この模擬天守は、昭和十年(1935)に復興天守の先駆けとなって建てられたものだ。

ここを訪れたら、天守台石垣の周囲に注目してもらいたい。おびただしい飛礫が石垣の下に積まれている。西から豊臣勢が来襲してきたら、この飛礫を高石垣上より放ち応戦するのだ。

伊賀上野城は伊賀盆地の中央にある。緑濃い丘上に、傘を広げたような俳聖殿(松尾芭蕪の記念節)と小さな天守が建つ。「日本こと地元が自慢するのが高石垣である。

高さと技法で日本一の石垣と地元が誇る城には、当城のほかにも大坂城、姫路城、熊本城、江戸城などがあるが、石垣下が水堀であったり、地業土がかぶせられている例が多く、判然としない。当城は昭和46年の実測では、水面下を含め直高26メートル、法高29.5メートルである。

松坂城(三重県松坂氏殿町)
松阪には三つの有名な城祉がある。市の西郊外、かつて南朝勢力の中核であった北畠氏が戦国時代に本拠を置いた大河内城(堀切・土塁が残る)、織田信長の二男信雄がいた松ヶ島城(火守台といわれる所が残る)、そして松ヶ肪城に代わり築いた、ここ松坂城である。

天正12年(1584)六月、築城の名手といわれる糊生氏郷は近江日野城より、伊勢岡12万3000石として松ヶ島城に入城した。しかし、松ヶ島城は海岸に位置して海風が厳しく、その上、狭小であった。

そこで天正16年、内陸に入った四五百森の丘を新城とし、築城工事を始めた。氏郷の出身地近江蒲生郡は、安土城を築いた馬淵の石工集団の本拠であり、氏郷は穴太衆とも親しかった。今日残る本丸周辺部の石垣は、氏郷が故郷の石工たちをもって築いたものだ。

和歌山城(和歌山県和歌山市一番丁)
6.和歌山城は姫路城、伊予松山城と並ぶ連立式天守があがる天守曲輪を有する名城だ。しかし、今の天守群はコンクリート製である。残念なことに福山城、名古屋城等と共に、第二次大戦の空襲で本来の天守群は焼失しているのだ。

天正13年(1585年)羽柴秀吉は、根来寺、太田党を攻め、一応は紀州を勢力下に置いた。太田城を落とし、和歌山にあった秀吉は、自ら縄張をして秀長の城を築いたという。この当時の城は、現在の本丸・二の丸、三の丸の地域に築かれた。 城の完成後は、桑山重晴が城代として置かれた。元和5年(1619年)には、家康の十男・頼宣が入封し、御三家紀伊徳川家の居城として盤備された経緯をもつ。

戦国の乱世を統一するために、天正13年、羽柴秀吉は、旧主君織田信長も苦しめられた根来雑賀党をはじめとする紀州の勢力に対し、6万の兵を率いて出陣した。秀吉は紀州攻めの本拠地を紀ノ川の河口、吹上の峰に定めて城郭を営み、若山城と称した。和歌山城の始まりである。

秀吉は紀州平定後に、弟秀長に支配を委ねた。秀長は大和郡山城を本城としていたので、桑山重時を城代に置いて城郭の整備にあたらせた。この時代の石垣には緑泥片岩(阿波肯石)が利用された。近世に入ってからの拡張部分の石垣は石材も手法も異なっている。



兵法軍学を駆使した赤穂城
兵庫県赤穂市上仮屋本丸内旧城1番
築城者: 浅野長直
遺構: 天守台石垣、堀

7.赤穂城は天正年間(1573~91)に備前国岡山の宇喜多秀家が砦を築き、家臣の津浪法印を配置したのが始まりとされています。場所は現在の城域の北寄であったといいます。

城を本格的な城郭に改修するのは、浅野長直が慶安元年(1648年)に入城した後。兵法者として有名な山鹿素行を招き、赤穂城の縄張を行った。旧城の南に新城の構築を計画、これが今に残る赤穂城で、海岸に近く、本丸・二の丸・三の丸とも同一平面上に築かれた変形輪郭式平城となります。

縄張は甲州流軍学者の近藤正純が担当し、山鹿流軍学の祖・山鹿素行の指導も受け、2つの軍学の実践として完成した赤穂城は、近世前期におけるもっとも新しい築城遺構の一つとして、城郭史上でも貴重なものです。13年の歳月を費やして寛文元年(1661)に竣工しましたが、この時天守と一部の隅櫓がまだ未完成でした。

城は明治18年(1889)ごろ、隅櫓や城壁などが取り壊され、堀も埋め立てられて荒廃しましたが、昭和30年に大手門と大手隅櫓、城壁の一部が復元され、さらに平成8年には本丸門、本丸跡には御殿の間取りや池泉も復元されました。天守台が南東隅に現存しており、二の丸跡も整備中で、まもなく新しい城跡公園として生まれ変わろうとしています。

そのほか城内には大石良雄の旧宅長屋門や大石神社があり、清水門東には赤穂市歴史博物館があって、貴重な資料が展示されています。

全国の主要地方都市の多くは城下町だが、その中のかなりの都市がここ数年で築城400年を迎える。

そこで最近、都市の原点である城郭を見直し、町のシンボルとして城を整備する自治体がたくさん出てきた。ここ赤穂市でも「忠臣蔵」の赤穂浪士討入り300年を目前にした平成12年(2000)頃から、思い切った赤穂城整備計画を進めている。おそらく、赤穂ほど注目される史跡整備を実施している都市はないであろう。

既に平成5年度に本丸にあった学校は移転し、全面発掘調査がなされ、出土した庭園と御殿配置が遺描展示された。これに続いて二の丸の民家をすべて撤去、失われていた二の丸と三の丸の中間の水堀と二の丸御殿及び庭園跡を全面発掘し、その出土遺構を目下展示すべく整備中だ。そればかりでない。三の丸では大石神社と廃城前の武家屋敷遺構以外のすべてを撤去、部分的に発掘調査して、展示を進めている。

築城の精鋭結集の堅城篠山城
兵庫県篠山市北新町
築城者:徳川家康
遺構:天守台、石垣、堀、馬出、土塁

篠山城は、江戸時代初期の慶長14年(1609)に、徳川家康が篠山盆地に築城した城です。

丹波篠山城は天下普請である。慶長14年(1609年)から始まった工事には15力国20氏の大名が動員された。このような天下普請は各地で行われ、その費用はそれぞれの大名が負担するものであり、外様大名の財力を削ぐことを目的とされていたようである。篠山城には建築遺構は残っていないが、ほぽ完全な形で石垣・堀からなる縄張構成が残っている。石垣を注意してみると、刻印があちこちに見て取れる。

城郭は篠山という小山を利用した平山城で、東西・南北ともに約400メートル、総面積約16万平方メートル、城の規模としてはさほど大きくはありませんが、当時の築城技術の粋を凝らした壮麗な城でした。

城郭は、藤堂高虎が得意とした方形の縄張で、輪郭式と梯郭式を併用した、ほかに類例の少ない城郭遺構といえます。特に南側の馬出の土塁は完全に残っています。また東側の馬出が、その旧態を残していることなど貴重なもので、昭和31年に国の史跡に指定されました。

この城ができた時に家康は堅固すぎると責めたといわれ、そのためか天守台は築かれましたが、天守は築かれませんでした。本丸・二の丸はすべて多聞櫓であったそうです。

二条城の書院を模したといわれる大書院も昭和19年に失火で焼失してしまいました。しかし、平成12年4月に再建され、現在公開中です。今も壮大な石垣や幅43メートルという外堀が残され、また城下町もよく保存されています。


高取城
8.現在は石垣のみ残る高取城だが、かつて標高584mの高取山の山頂に築かれた城は、城郭の広さ60ヘクタール・周囲30mのとんでもない規模の山城だったという。27の櫓や33の門など近世の山城では異例の規模で、日本一の山城とされている。

その全容は2005年に高取町のボランティア団体が奈良産業大学に依頼し、学生約10名を中心に結成されたCG再現プロジェクトの成功により伺い知ることができる。

『高取御城規』という古文書から書き起こした194カ所の復元図をもとに、約1年半にわたってコンピュータ150台を駆使し、まるで城内を歩いているかのようなCG動画を再現したのだ。天空に聳えたつ城郭都市の全容をCGで予習した上で、現地へ足を運べばその感動もまたひとしおである。




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