川田義朗は吉凶占いで島津氏を滅亡から救った

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川田義朗

戦術6
知力7
政治力5
忠誠心7
運7

迷信と合理的判断を使い分ける築士
1.義朗の軍師としての力量が発揮されたのは、島津氏が存亡の危機に瀕した天正6年(1578)の耳川合戦である。当時、九州最大最強の大名だった大友宗麟が、四万といわれる大軍を擁して南下してきた。

やっと南九州を統一したばかりの島津氏の総兵力は、その半分に満たない。大友軍は島津領の日向を怒涛のごとく侵攻して、南下の勢いは増すばかり。

島津氏は高城川原でこれを迎え撃った敵の陣形が伸び切ったのを見破り、側面から遊撃隊を突撃させて逆転勝利。敗走する敵勢を猛追して壊滅させた。この戦いにおいて、布陣や戦術を授けたのが義朗だったといわれる。

「このやり方なら勝てる!」と、義朗が言えば、その呪術や祈祷を信じる将兵は、勝ちを確信して勇猛になる。並の軍師では、ここまで将兵をやる気にはさせられないだろう。

古い迷信的な軍配者と、新しい合理精神に富んだ軍師。それが融合した義朗だからこそ、成し得た奇跡だったのかもしれない。

また、豊臣秀吉の九州征伐の時、当主の島津義久は徹底抗戦か降伏かで悩んでいた。家中の抗戦派に圧され出陣の日取りを決めなければならず、くじ引きで出陣日を決めた。しかし、「その日は悪日、出陣は取止めるべきです」義朗の吉凶占いは、くじ引きの結果と正反対。

これによって義久は出陣を断念して、島津氏はその後に和議を受け入れて降伏した。

結果的にそれは島津氏を滅亡から救うことになった。あるいは、義朗は吉凶占いではなく、情報を精査した現実的な判断で決戦を避けるよう意見したのかもしれない。軍師の判断には従わない頑固な者も、軍配者の占いの結果には逆らえない。



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