静岡県・掛川城|山内一豊が改修して戦後初めて木造で復元された城
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掛川城(静岡県掛川市掛川1138-24)
掛川城について
掛川城は、戦国時代の永正10年(1513)に駿河の今川義忠が重臣の朝比奈泰煕に命じて築かせた城に始まります。安土桃山時代の天正18年(1590)には山内一豊が入り、近世城郭として整備しました。
本丸・二の丸・三の丸などの諸曲輪を内堀・中堀の内側に配置しています。さらに町の中央を東西に貫いて流れる逆川を境に、城下町を川の南側に割りつけ、北側には武家屋敷や小者部屋などを配しました。
武家と町屋を完全に区割りして規制したのです。さらに城とこの城下町全体を、外堀で囲む総構えを完成させています。慶長元年(1596)には、本丸の北側に天守を造営しました。
江戸時代を通して、徳川家の大名が城主となっています。安政元年(1854)の大地震で天守など大半が損壊し、明治維新を迎え廃城となりました。
江戸時代末期のものとして、二の丸御殿が現存しており、平成6年にはすべて木造という三層四階の天守が復興再建されています。費用は22億円かかったといいます。
天守入り口近くには注目に値すべき、「霧吹き井戸」があります。言い伝えによれば、昔敵が攻めてきて城を包囲した時に、この井戸から霧が立ちこめて、あたりを閉ざし、敵が近づくことができなくて退却したといいます。
平成6年(1994)春、掛川城に天守が復元された。この復元天守は木造で、しかも建築費の多くが市民の寄付金によったことから大きな話題となった。本丸は発掘され、天守台石垣が復元され、残存移築されていた太鼓
櫓も修理がなされた。
天守復元に合わせるかのように、JR掛川駅前も再開発された。もともと掛川は静岡と浜松の中間に位置し、目立たない街であった。ところが天守復元により「本物の天守閣」をもち得たことで、かつてない活気を呈したようである。
ところが、復元された天守は下見板張ではない。著者はどうみても、山内氏時代の外容と称する限り、もとは下見板張であったはずだと思う。掛川城天守を模したという高知城天守も、当初は下見板張の黒い外観を呈していたはずだ。
掛川城に関する伝来絵図を見ても、下見板帳が猫かれている。天正18年(1590)の山内一豊築城時はなおさらである。ともあれ、天守再築で掛川市は新たな都市づくりの核を得た。
平成6(1994)年、戦後初めて木造で復元された城として知られていますが、復元された天守は、残っている絵図とは異なる、高知城をモデルにしたものになってしまったそうです。
せっかく絵図も残っていて木造でと考えると、元通りの復元でないのが残念な気もしますが、ここには4つしか現存していない御殿のひとつが残されています。この御殿はぜひ見ておきたいですね。
掛川城の歴史
掛川は歴史的にも忘れてはならない重要なところ。慶長5(1600)年、
秀吉の死後、
関ヶ原の戦いに向かうため、家康は東海道を通って西へ向かう必要がありました。
しかし、東海道沿いには秀吉方の大名が大勢居城を構えています。そんな中、いち早く城を明け渡しますと申し出たのが一豊だったのです。そしてこれを機に、ほかの大名たちが城を明け渡して家康を順調に進軍させたというわけです。
一豊はその功績が認められて、後に土佐の城主へと出世しました。そう考えると、この城はその後続く徳川幕府の礎を築いたところと言っても過言ではないのかもしれません。
掛川城
国重要文化財 二の丸御殿、大手二之門(移築・油山寺山門)
別名 懸川城、雲霧城(うんむじょう)、松尾城(まつおじょう)
分類 平山城
築城年 永正9(1512)年、天正18(1590)年
築城主 朝比奈泰煕、山内一豊
主な城主 朝比奈氏、山内氏、太田氏など
静岡県掛川市掛川1138-24
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