鹿児島県・鹿児島城|簡素で防御を考える必要がなかった城
更新日:
鹿児島城(鹿児島県鹿児島市城山町)
鹿児島城について
1.
鹿児島城は、慶長7年(1602)に島津家久によって築かれた平山城です。
薩摩藩には、近世一般の天守を持つ城郭はありません。錦江湾を望む城山を詰の城とし、束山麓に石垣で囲む本丸(居館)・二の丸(藩庁)・出丸(後の私学校)を設けましたが、本丸には堀と櫓門がある程度の簡素なもので、城というより館でした。
これは、「城をもって守りとなさず、人をもって守りとす」という島津精神によるものなのです。そのために薩摩独特の「外城制度」があり、領内に支城網が整備されて、俗に外城といわれました。
外城といっても、城郭があるのではありません。領内を113の区画に割り、そこに地頭仮屋を設け、周囲に「麓」と称される土着武士の集落をつくって、地域の軍事・行政を管轄する仕組みになっていたのです。この組織を「耐」といいます。鹿児島城下に住む藩士を城下士と呼本丸石垣と堀に対し、郷に住む「半士半農」の藩士を郷士と呼んでいました。
元禄9年(1696)の火災により本丸居館は全焼し、その後再建されましたが、明治4年(1871)には城内に置かれた、熊本鎮台分営より出火し再び全焼してしまいます。
現在城跡は、本丸・二の丸・出丸の石垣と堀が残されているだけですが、大手橋を渡って本丸跡に入ると、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」があり、先史から現代にいたる鹿児島の歴史・文化が一望できます。
11.鹿児島の観光の中心は西郷隆盛が最期の地として柵能った、内南戦争の群台城山である。城山の雌私学校跡の石垣には今も弾痕が生々しく残る。城山は一朝事ある際に烏沖勢が楯籠る詰の城であった。
城山の麓の鹿児島城は慶長18年、島津家久が築いた。本丸、二の丸、東側に私学校が幕末に開かれた出丸からなる。
大手に榊門が幟えられ、東側と西側に物見櫓を兼ねた多聞櫓が石垣上に建てられる以外は、塀をめぐらしただけで、島津氏72万石の大大名の城としては、たいへん簡素な構えであった。幕府に対する配慮から重層の櫓や天守は建てなかったのである。そのかわり、薩摩、大隅、日向の3国にはなんと120カ所に及ぶ麓とか外城と称する支城を置いた。
鹿児島城はあえて無防備につくられた?
2.
鹿児島城は、1602(慶長7)年、島津家久(忠恒)が築城し、現在の鹿児島市城山町の標高100メートルの小高い山の麓に築かれた。
慶長5年(1600年)に関ヶ原合戦で敵中突破を成し遂げた島津義弘の子・家久が、上山城祉である城山とその麓に、城を築き鶴丸城と称した。麓に本丸御殿を設けただけの小規模な造りは、徳川幕府に対して恭順の意を表すためだといわれている。
現在、城祉は麓に残る石垣と堀だけが当時の風景を残すのみ。本丸には黎明館が建てられ、鹿児島県立博物館の観光地としても有名である。
当時、城は軍事を追求した近代城郭が当たり前になっていたにもかかわらず、鹿児島城は
天守もなく、重層
櫓もなかった。まるで武士の屋敷に毛が生えたようなものだったといわれている。あるのは
石垣と水堀に囲まれた本丸と、水堀もない二の丸と厩(馬小屋)だけというあまりにも簡素で無防備な造りなのである。
しかし、けっして財政難だったわけではない。そこには島津家ならではの哲学があったのだ。
そもそも島津藩があった鹿児島の南端には他藩の往来はほとんどないため、特別に城を防御する必要がなかった。
また、外様大名である島津家が幕府への絶対的な服従の意志を簡素な城で表したともいわれ、世渡り上手な島津家らしさがうかがえるのだ。
家久の兄である島津義久の言葉に「城をもって守りと成さず、人をもって守りと成す」という名言があるが、薩摩藩には「外城制度」と呼ばれる地元独特の制度があった。
この外城制度を簡単にいえば、各地に農村、漁村支配の拠点機能を持った仮屋を配置し、そこに武士を分散させた軍事ネットワークだ。これが立派に防御システムの役目を果たしていたのである。
簡素な城にできた理由がちゃんとあったのだ。
その防御システムが及ばず、城が攻められるときがくるのなら、もはや抵抗できる状態ではないから立派な城を築いても無駄になる。そう考えたとすれば、家久はなんとも潔く、合理的な人物だったに違いない。
この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!