広島県・広島城|地盤が弱く難工事で築城したのに原爆で焼失

更新日:

広島城(広島県広島市中区基町)

広島城について
1. 広島城は、豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた典型的な平城です。

毛利氏は、南北朝時代から郡山城(高田郡吉田町)を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父元就の代になって中国地方の大部分を支配する戦国大名になりました。その後を継いだ輝元は、中国地方9ケ国にわたる領地を統治するため、天正17年(1589)、当時五箇村と呼ばれていた太田川のデルタに築城を開始し、同19年に入城しました。本丸・二の丸からなる城は秀吉の聚楽第をモデルとしていたということです。

輝元は、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後長門萩に移され、福島正則が安芸・備後両国の領主として入城しました。しかし正則は、元和5年(1619)に洪水で破損した城を幕府に無断で修築したという理由で信濃国川中島に転封、代わって紀伊から浅野長晟が入城し、以後明治維新までのおよそ250年間、12代にわたって広島城主を務めています。

明治4年(1871)の廃藩置県以後、徐々に軍施設が設けられ、明治27~28年の日清戦争の際には大本営が置かれました。そして昭和20年8月15日、原子爆弾により天守をはじめ、城内の建物すべてが壊滅します。

現在の天守は昭和33年に復元されたもので、二層に二連、三層に一連の千鳥破風を持ち、下見板張の外観です。内部は武家文化を中心とした歴史資料館になっています。

また平成3年には表御門と御門橋が、同6年には平櫓・太鼓櫓・多聞櫓が復元されています。


広島城は太田川河川のデルタに築かれた平城だ。その規模は城下町をも濠で囲む南北約3.2キロ、東西約2キロに及び、南限は平和大通り辺りだった。広島湾の港と直粘し、満潮時には濠に海水が逆流する海城的な構えであった。

広島城の東南東約1.5キロに、標高約70メートルの比治山がある。「正保城絵図」右下に柵かれる丘だ。地誌「知新集」によると、毛利元就の時代には比治山の西と南を海水が洗い、西北は京橋川河口であった。

元就は、比治山に新たな本拠を築こうとしたという。しかし理由は詳らかでないが、城地を五ヶ村のデルタに変更した。比治山には千畳敷という川上広場があり、当時の遺構と伝える。「日御碕神社文書」によると、比治山築城は毛利輝元の側近佐世氏が指示しており、元就ではなく輝元時代の事積であったろう。

広島築城は天正17年(1589)3月頃より始まり、同19年に輝元は入城した。築城は島普請ともいい、デルタの埋立てと濠の竣深に力が注がれた。有力な大名輝元の築城にあたり、秀吉は黒田如水に助言役を命じたという。

竣工した城は、聚楽城によく似た形であった。この時点での輝元の築城目的は、自らの本拠地ではなく、秀吉の朝鮮出兵の宿城づくりであったろう。肥前名灌屋へ赴く秀吉は、文禄元年に広島城に入り、滞在。当時の広島城は今の規模ではなく、単郭が基本の縄張で、秀吉好みのきらびやかさであったようだ。発掘で金箔瓦も見つかっている。

原爆で吹き飛ばされた名城がある
2. 広島県広島市にある広島城といえば、四方を多くの鯉が泳ぐ堀に囲まれた水源豊かな美しい城として人気がある。

ところがこの城の大部分は、1945年に投下された原子爆弾により一瞬で消え去ってしまった。

天正17年(1589年)築城を始めた広島城は、秀吉の聚楽第を模したといわれている。原爆で焼失した天守も聚楽第同様、桃山様式を伝えた優美なものであった。

この広島城は1589年、豊臣秀吉政権下の安土桃山時代に築城が開始されている。初代城主は毛利輝元だ。輝元は三本の矢の逸話でおなじみの毛利元就を祖父に持つ、歴史ある毛利家の血をひいている。

輝元は、中国地方一帯を治めることができる場所として、当時は「五ケ村」と呼ばれていた広島の地に城を構えることを決めた。

築城が開始されたものの、そこは太田川の三角州の砂地と地盤が弱く、まるで砂地の真ん中に島をつくるような工事は「島普請」といわれる難工事になった。この太田川は城を囲む堀の水源に利用されたが、一方で洪水の被害も多く、その後の城主たちを悩ませた。

そんな歴史ある広島城だが、広島への原爆投下では爆心地に近かったこともあり、原爆の熱風で天守は倒壊、門やは焼失してしまった。城全体を瞬時に破壊してしまった原爆の威力は、ただ恐ろしいばかりだ。

石垣や掘を残すのみだった広島城は戦後になってから復元され、天守部分も再現されている。爆風に耐えた石垣の一部には、いまも被ばくした樹木や黒くこげた部分を見ることができる。
この広島城は「原爆ドーム」同様、戦火を経験した生き証人として、広島の平和の象徴でもあるのだ。



この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!
ナビ
Page Top