弘前城の天守は東日本で唯一現存する重要文化財だけど波乱の歴史がある

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弘前城(青森県弘前市下白銀町1)

弘前城について
弘前城は、江戸時代初期の慶長16年(1611)に、津軽信枚が津軽平野の高岡に築いた平城です。築城工事は津軽の統一を成し遂げ、近世城郭の必要性を感じた前城主為信によって文禄2年(1593)から開始されましたが、慶長12年に為信が死没したので、子の信枚が引き継ぎました。同15年から本格的な工事に取りかかり、4年後に完成しています。

弘前城の特徴の一つは、東日本で唯一現存する天守です。当初は5層でしたが、寛永4年(1627)の落雷により焼失してしまいました。現存天守は、文化7年(1810)に本丸東南櫓を改造したものです。

装飾性のない江戸中期の特徴を持ち、屋根は寒さに強い銅瓦葺となっています。かなり簡素化もされています。外面と内面の窓がまったく違うことが特色です。

城は、本丸・二の丸・三の丸・内北の曲輪、北の曲輪などで構成され、各曲輪とも直線的な塁濠に囲まれています。城主は、江戸時代を通じて津軽氏で、10代が続きました。

天守・この丸辰巳櫓・未申櫓・丑寅櫓・南門・束門・三の丸追手門・東門・北の曲輪北門(亀甲門)が現存し、いずれも国の重要文化財に指定されています。弘前城といえば桜で有名ですが、雪景色の天守もまた美しいものです。また堀の蓮の葉が新緑を迎えるころも、城の見ごろの一つでしょう。

そのいちばんの特徴は、石垣がないということ。城の基礎部分の構えがほぼすべて中世の名残を留めた昔ながらの土塁なのです。

岩木川東岸の丘の上に築かれた平山城である弘前城。三重の堀を廻らせ、北・東・南の三方向を4つの曲輪で囲み、西方を水域で守る輪郭式縄張の城郭である。

素晴らしいのは、築城された頃の縄張が見てとれて、曲輪全体がはっきりと残っているところです。そういうところには、よく放送局などが建てられたりしますが、ここはきちんと城郭の跡が残されています。

築城当時には本丸南西隅に五重天守がありましたが、寛永4(1627)年、落雷によって焼失。以後天守は再建されずに、文化7(1810)年、幕府の許可を得て辰巳を改築して天守としました。

この天守、正面から見ると白壁に切妻破風を施されて非常に美しいのですが、裏はまるで飾り気がない。ここまでの表情の違いはなかなかないので、ぜひそこも味わっていただきたいです。


城に桜の風景
弘前城のある弘前公園は桜の美しいことでも知られていますが、ここの桜には樹齢百何十年という長生きのものが多いそうなのです。

それはなぜですかと伺ったら、土地柄、リンゴの剪定技術が活かされているというのです。普通、桜の枝は折らないものですが、弘前の桜は剪定することによって、長生きしているのだと。これには、なるほどと思いました。

しかしながら、我々のイメージの中に植えつけられている城に桜の風景、実は明治以降に観光地として人を呼ぶために桜が植えられて発達したもの。もともとは『城』と言えば、『松』だったのだそうです。

5月の連休には毎年200万人以上の人々が、枝垂桜を愛でるため、弘前城を訪れる。城址公園といえば、弘前城ばかりでなく、ほとんどの城址が桜の名所になっている。

実は「城と桜」が結びついたのは、明治中頃(約110年前辺り)からであった。戊辰戦争、日清・日露戦争での戦没者を慰めるため県別に護国神社が各地に忠魂碑が建てられ、その周囲に国威宣揚のため、武士道に通じる「散るみごとさ」の象徴として桜が盛んに植えられた。護国神社や忠魂碑は当時、廃城後まもない地方都市の中心に位置する城址に建てられた。

やがて唱歌「荒城の月」が人々に愛唱され、城と桜は、昔からあったような風景に納まった。弘前城にも北曲輪に護国神社が鎮座する。軍国主義の産物だった桜であるが、城本来の樹木といえば、弘前城二の丸内にも群生している松か竹なのである。松は建材・明り・食物として用途が広く、防風林も兼ねて、城の塁壁上に好んで植えられた。


弘前城北側の北門(亀甲門)を出ると、向かいの四辻に面して、国の重要文化財に指定されている「石場家住宅」があります。

これは、近世後期の数少ない商家の遺構で、屋内の土間、井戸などに往時の名残を感じることができます。

この石場家は弘前藩出入りの商家で、屋号を「まるせ(○に世)」と称し、藁工品荒物を扱っていたと言います。石場家は代々、清兵衛を名乗りました。今でもご商売をなさっているのですが、お願いすれば中を見せていただける。

建物は正面15間半、奥行22間という広大な敷地の西南隅に位置し、間口9間の、柾葺、妻入の入母屋造で、正面道路に沿って15畳の角座敷が取りつけられて「こみせ」を張りだしています。この辺りは、武家屋敷もけっこう残っているので、お城だけでなく町の散策もお勧めですね。


弘前城は天守を大爆発した
東北地方に春を告げる桜の名所としても有名な弘前城。現存する天守としては東北地方唯一の存在であり、その壮大で美しい姿は重要文化財にも指定されている。
ところが、弘前城のシンボルであるその天守は、かつて大爆発を起こしたという歴史を持っているのだ。

青森県弘前市にある弘前城は、1603(慶長8)年に津軽為信によって築城が開始されている。
その後、2代藩主の信枚に引き継がれ、広さ約49.2ヘクタール、いまでいえば東京ドーム10個分以上という広大な敷地に、東北地方では初めての石垣造りの城が築かれた。

そんな弘前城で特に目を引く建物がその天守だ。
築城時に建てられた天守はなんと全五層からなる見事な高層建築だったのだ。高層の天守として名高い織田信長安土城が5階七層といわれていることから、その大きさは当時としては国内最大級と考えられる。

ところが、その巨大な天守が大惨事に見舞われることになる。1627(寛永4)年、天守の頂上にそびえ立つシャチに雷が落ちてしまうのだ。

天守は雷により出火し、最上階から炎上。その炎はまたたく間に天守を包んでいく。さらに不幸なことに天守にあった火薬庫に引火し、ついに大爆発を起こしたと伝えられている。この火災により、天守は完全に焼失してしまったのだ。
ほかにも落雷によって天守が焼失してしまったという記録は各地に残されており、じつに惜しむべきことである。
ちなみに現在の弘前城に残る三層の天守は、その後再建されたものである。


見どころ&城情報
現存みどころ 未申櫓
弘前城には1615年(慶長末年)に建造された三層櫓が3基も残る。未申櫓、丑寅櫓、辰巳櫓で、どれもが重要文化財に指定されている。いずれの櫓もかつてはクヌギ葺で、ニ層大入母屋の上に三層目をあげた型。内部はかつて畳敷きで、三階にも天井が吊られ、慶長期の姿を色濃く残す。

イベント 弘前城雪燈籠まつり
雪のシーズンに開催される名物祭り。約150の武者絵をはめこんだ雪燈籠や、約300基のミニカマクラが並ぶ幻想的なイベントだ。真っ白な雪を照らす光の演出も見どころのひとつ。

弘前城
国重要文化財 天守、辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓など9棟
別名 鷹岡城(たかおかじょう)
分類 平山城
築城年 慶長8(1603)年
築城主 津軽為信、信枚
主な城主 津軽氏
青森県弘前市下白銀町1


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