兵庫県・姫路城|国宝・重要文化財・特別史跡そして世界文化遺産
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姫路城
姫路城は、元弘の変(1331)の時、赤松則村が上洛の途中、姫山に陣を構えたことに始まります。貞和2年(正平元年・1346)則村の子貞範力蝿張をし、室町時代を通し赤松氏が居城しました。
戦国時代になり、中国征伐の羽柴(豊臣)秀吉が播磨三木城を滅ぼして姫路に入城します。天正9年(1581)浅野長政に縄張を命じ、旧姫路城を大改修しました。
関ヶ原合戦の後、徳川家康の娘婿にあたる池田輝政が入り、以後しだいに城は整備されていきます。慶長14年(1609)には5層6階地下一階の大天守を完成させました。本丸・二の丸・三の丸・西の丸を内曲輪とし、平地に中曲輪・外曲輪を配置し、三重の螺旋状の堀を巡らせたのです。元和3年(1617)になって本多忠政が入り、城主の居所を三の丸へ移して、東御屋敷・西御屋敷などの居館を構えました。
標高46メートルの姫山山頂に天守以下82棟の櫓門、土塀などが現存しています。このように多くの建物が完全に残っていることから、近世城郭の全貌を知ることができます。天守は国宝、ほかは重要文化財に指定されました。天守は大天守と東・西・乾の小天守3基を渡櫓で結んだ連立式といいます。
姫路城はなぜ美しいのでしょう。城としての美の構成から見ますと、3点に分けられます。
まず第一には経始・縄張的な構成です。姫路城を正面、すなわち大手門から見ますと、雛段状に、三の丸・二の丸・山里曲輪・備前曲輪・天守曲輪と、5段階に整然と曲輪が構成され、実際より大きく、堂々として見えます。
このような縄張を階郭式と呼び、また兵法では「一二三段」と呼ぶ方式です。この配置は、建物を城外から見通しよく見せるばかりではなく、上下の変化によって動きのある美の均衡を演出しているのです。
第二に建築の装飾的な構成です。その一つは城内の道に見られます。道の両端には塀が施され、そこには丸・三角・四角・将棋型の狭間がデザイン的に開かれています。
以上2つの美は、見た目の美しさですが、第三に歴史的背景を踏まえると、同じ景色を見ても味わいが深まります。特に、家康の孫・千姫が住んだという、西の丸化粧櫓から望んだ天守群の美しさは、目を見張ります。
姫路城の見どころはたくさんあるのですが、ここでは城の持つ「七不思議」を探訪することにしましょう。
一は「西の丸の化粧櫓」です。千姫が、本多忠刻に嫁したときに造られた櫓です。通常の城には、化粧櫓などというものはありません。
二は「天狗の置文」、築城に際して天狗が置文をして、注意事項を教えてくれたそうです。それを守らなかったため、城主池田輝政は病に倒れたといいます。
三は「天守の妖怪」、天守にはヲサカベという妖怪がすんでいるといいます。
四は「傾いた天守」です。
東側から見ると天守が傾いているように見えます。
五は「桜井源兵衛の墓」、天守を造った大工が桜井源兵衛でした。源兵衛は城普請の後に自殺してしまいました。その墓が城内にあります。
六は「お菊井戸」です。播州皿屋敷のお菊さんが飛び込んだ井戸といいます。
七は「腹切丸」で、曲輪の一角にいかにも切腹場のように見える場所があるのです。
伝説に彩られた姫路城、中央の大天守と三つそうぬりの小天守からなる天守群は、白亜の総塗籠であることから、「白鷺城」と称され、華麗な姿を見せています。
今から150年ほど前までの姫路城は、現在の数十倍の規模を有していた。今は城址公園になっている堀に囲まれた内側でも、建造物が残るのは当時の3分の1の範囲に過ぎない。城址公園の広場などは三の丸にあたり、建物群が残るのは本丸、二の丸、西の丸だけである。
では、本来の姫路城はどのくらいの規模だったのだろうか。南北の大きさでいうと姫路駅から姫路市中央図書館のある野里門まで約1.8キロ、東西は外京口門から車門まで約1.6キロで、広さは約187平方メートルに及ぶ。
今日の姫路市街中心部がすっぽり入る大きさだった。ちなみに建物が残るのは内城域の南北約200メートル、東西約300メートルの部分だが、建物といっても生活に欠かせない御殿や数寄屋、蔵などはまったく残っておらず、備前丸には何の建物も残存しない。
姫路城は建造物がそのまま残る唯一の城として、国宝、重要文化財、特別史跡、そして世界文化遺産に指定されている。
現存天守群を残すばかりでなく櫓、門、塀などの城郭建築を最も多く残す城。これらの遺構を築いたのは池田輝政で、慶長5年(1600年)に築城を開始した。
城郭全体から見ると一部分しか残っていない姫路城だが、これだけまとまって保存されている城郭は、日本でもここだけである。ほかの城は明治に人って政府の発令により破却されてしまった。姫路城も取り壊されることになり、当時23円50銭で落札された。しかし、取り壊しにはあまりに手間がかかりそうなので放置され、
天守以下の建物は朽ち果てるままになった。
女難城
姫路という地名の起りは「播磨風土記」に出ている。大穴持ノ命(大国主命)の御子火明命は行状まことに粗暴な神であったので、大穴持は忌みきらい、捨てようと思い、一緒に因達山(姫路市の北方にある八丈岩山のことであろうという)に行き、火明に水を汲んで来いと命じた。
「はい」
火明命が水汲みに出かけると、大穴持は舟の用意をして出発した。間もなく、火明は水を汲んでかえって来て、父神が自分をおきざりにして船出して行くのを見、激怒した。
「ひどいおやじめ! その儀ならば!」
と波風を起して追いかけた。そのため、父神の舟は進むことが出来ず、波浪に瓢蕩せられてこわれたが、その際、舟にのせてあった様々な道具や動物が飛び散って山や丘になった。すべて今の姫路附近の山々だ。
その時、蚕がおちて出来たのが今姫路城のある日女道丘である、というのである。蚕のことを上古は「ヒメ」または「ヒメコ」といったのだ。今日でも静岡県の一部では「ヒメコさん」といっている。
もちろん、この地名伝説はあてにならない。「日本書紀」や「古事記」や「風上記」に出て来る地名伝説はみなこの式のものであるが、つまり古代人の素朴な小説的発想にすぎない。
この山には富姫明神と刑部明神の二女神が祀ってあるところから、姫山と名がつき、その山の麓地帯はそこに行く道にあたるから姫道(路)と呼ばれるようになり、後にその地域がひろがって山も含むようになったので姫道(路)村の山という意味で姫路丘と呼ばれるようになったのではないかと思う。
とこに最初に城が出来たのは、南北朝時代である。創建者はこの国の守護であった赤松貞範であるともいい、赤松の支族である小寺頼季ともいうが、確かなところはわからない。赤松氏は、足利六代の将軍義教を恨むことがあってこれを殺したので、幕府の追討を受けて一時家名断絶したが、その後また再興されて播磨守護に復した。
この時、姫路は赤松氏の支族で被官である小寺豊職の領地になった。城は存続していたかどうか明らかでない。小寺氏は姫路の東方一里ほどの御着を居城としている。もし城が存続していたとすれば、城代をおいて守らせていたのだろう。数十年たって、戦国時代の中頃、この姫路村にどこからともなく旅の浪人が来て、居ついた。どこの何ものとも名のらず、ただ、「黒田入道」とばかり言っていた。
浪人はひどく貧乏で、朝夕の煙も立てかねるほどであったが、ある時、姫路の北方三十町ばかりの山中にある広峰明神に参詣した。広峰明神はその創建は奈良朝の天平時代で、日本最初の祗園神社で、京の祗園社もここから勧請されたといわれているくらいで、中々由緒のある社である。
なぜ黒田入道がそんな気になったか明らかでないが、おそらく盛んな神社の様子を見てすがる気になったのであろう、神主に会って現在の境遇を訴え、何とか方法はないものかと相談した。
黒田入道は後の様子を見ると、中々立派な人柄であったようだ。だからだろう、神主は心を動かした。
「そなた様、諸人の重宝するような薬の処方などご存じでないか。この社は播州一国中の軒なみに祈薦札を配りますによって、その札にそえて、これはわれらが懇意な浪人衆が渡世のために調合せらるる薬でござれば、お札へのお初穂と同じように、米を少々ずつ合力して下されと申したなら、よほどの米が集まろうと思います。さような薬の処方はお知りではないか」幸運にも、黒田入道の家には家伝の目薬の処方があった。
「奇妙なことかな。拙者家にまことに効験ある目薬の処方を伝えています」
「それそれ、それを調合してまいられよ」
播州一国の人を信者としている広峰明神の神主が配布役と宣伝がかりを引受けてくれるのだ。しかも、なかなか効験もある薬であったので、飛ぶように売れた。後には目薬ばかりでなく、気附薬や馬の薬まで売出し、ついに黒田家は大福長者となった。
この黒田入道とは、黒田如水の祖父重隆のことである。黒田家は近江源氏佐々本の一族で、代々江北の伊香郡黒田村にいたので、黒田を氏としたのであるが、落塊して備前邑久郡福岡郷に移り、さらに戦乱を避けて姫路に流浪して来たのであった。
重隆の子は満隆という。父子ともに賢くもあれば、人情深くもあって、次第に百姓らの人気を得て、小豪族となり、御着の小寺家の家来となった。
満隆は中々の人物であったので、小寺政職は信任すること一方でなく、家老の一人とし、名字をあたえて小寺職隆と名のらせ、ついには首席家老として、姫路城もあずけた。
職隆の子が官兵衛孝高、後の如水だ。これがまた智略縦横といった人物。22で小寺家の家老の一人となった。
当時毛利氏は安芸を中心として、その勢力は、西は北九州に及び、東は但馬地方までおよんで、播州の諸豪族は皆毛利氏に服属していたが、官兵衛は織田
信長が大器であり、必ず天下取りとなるであろうと見て、主家を説いて、信長に服属を申し送った。天正5年(1577)の10月、その信長の中国方面軍司令官として、羽柴
秀吉は播州に入った。官兵衛はこれを姫路の東方二里余の阿弥陀宿まで出迎え、居城姫路を提供した。
以後、姫路は織田氏の中国経略の前線基地となる。
天正8年(1580)、秀吉は城に大修理をし、現在天守閣のある地点に三層の天守閣を営んだ。この一郭を後世太閤丸という。太閤丸は平地から20メートルの高さの地点にあり、後に至るまで姫路城の中心となった。
当時秀吉は江州長浜とこことに城を持っていたが、はじめの頃は妻のねねは長浜にのこし単身姫路に行っていたので、ここには妾をおいた。姫路殿とばかりで、どんな素姓の女であったかわからない。播州の豪族の女で半ば人質であったのではないかと思う。
特筆すべきは、文献にあらわれたところでは、これが秀吉の最初の妾であることだ。
少年時代を流浪の不良少年として送り、20前後に草履とりという賤役をもって信長に仕え、期難辛苦、努力を重ねて、25、6年かかって、ともかくも信長鹿下で五本の指におられるほどの侍になったので、「おれももう妾くらい持ってもよかろう」という次第であったのではなかろうか。こんなところ、英雄も凡人もそう違うものではない。
姫にまつわる伝承の白鷺城
姫路城は1609年、池田輝政によって築城された城郭である。 白漆喰総塗籠づくりの4つの大小の天守が、屋根をひろげて群立するさまは、大空を舞う白鷺の群れに見えるために、通称「自鷺城」とも呼ばれる。
城は戦争のシンボルであるはずなのに、この白鷺城は見る者をなごませ、そこには、きなくささや悲惨さがみじんも感じられない。 大天守が国宝に指定されているだけでなく、日本建築の中で、法隆寺とともに世界文化遺産第一号に登録された。
一般に「城」といえば、多くの人々がこの姫路城を思い浮かべるという。当初の天守や曲輪、
石垣などが、ほぼそろって今に伝わったほとんど唯一の希有な城郭である。
姫路の地は、山陽道と山陰道を結ぶ基点で出雲街道、因幡街道、但馬街道が分岐する陸上交通の要衝である。1346年にはすでにこの地に赤松貞範が姫山城を築き、その後、城主が二転三転した結果、1580年には豊臣秀吉が入城し、二重の天守を建立した。
1600年、
関ヶ原の合戦後、その軍功が認められて、池田輝政が入城したのである。
見どころ&城情報
みどころ 狭間
姫路城は純白な白亜総塗込総漆喰の壁と、瓦の継ぎ目にも漆喰が盛られており、遠方より見るとまさに白い城なのだ。これは池田輝政が徳川家康の娘・督姫をめとり、源氏一族の白旗の一族になったことを意味する。壁には長方形・正方形・三角・丸の狭間と呼ばれる、窓であり鉄砲や矢を放つための穴が開く。リズミ力ルに連続して壁に開けられた挟間は、城を訪れる者の目を楽しませてくれる。
イベント 姫路城観月会
姫路市最大のイベント。夏の風物詩としてにぎわいをみせる会場内では、姫路城薪能やお城の女王発表会など、さまざまな催し物が開催される。2000名以上が一斉に播州音頭を踊る総おどりは必見。 期間7月末-8月初頃
姫路城(兵庫県姫路市本町)
別名 白鷺城
所在地 姫路市
種類 平山城
築城者 池田輝政
築城年 慶長6年から14年(1601~9)
歴代城主 池田氏 本多氏 松平氏 榊原氏 酒井氏
石高 酒井氏15万石
遺構 天守閣
櫓 門 など原形を保存し日本一の城郭
遺構 国宝
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