羽柴秀長は秀吉が最も信頼していた腹心で資質も優れていた

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羽柴秀長

戦術4
知力6
政治力0
忠誠心10
運8

豊臣秀吉が最も信頼していた腹心
1. 豊臣秀吉が最も信頼していた腹心。それは、やはり幼少の頃からともに暮らした実弟の秀長であることは間違ない。

豊臣政権成立後は、大坂や京、伏見といった政権の要地を囲むようにして百万石を越える領地を与えられていた。その配置をみても、秀吉がいかに秀長を信じて頼りにしていたかが解る。

秀吉が北近江十二万石の大名に出世した頃、すでに秀長を郷里の尾張中村から呼び寄せ、自分の腹心として働かせていた。秀吉は他にも多くの縁者を武士に取り立てて出世させたが、残念ながら秀吉の血統には、彼以外は資質に優れた者は見当たらない。唯一、秀長だけがその例外だったといわれる。

秀吉が出征で領地を留守にする時は、秀長が長浜城代を務めて領地を統治したという。人心の掌握に長け、行政能力も高かった。また、秀吉が中国方面の総司令官として出征すると、秀長もそれに従っている。 合戦では目立った活躍のない印象が強いが、しかし、よく見れば戦闘指揮官としてもなかなかのもの。

本能寺の変後の「中国の大返し」では、難しい殿軍の指揮を執り撤退を成功させた。また、賎ヶ岳合戦でも、敵の猛攻に耐えながら秀吉の主力が戻ってくるまで、陣地を守っている。粘り強い戦いは秀長の真骨頂だった。

秀吉は四国征伐で、自分に代わって秀長を派遣して総大将を代行させている。実弟だからというだけではない。兄の秀吉のように派手さはないが、状況判断が的確で、窮地に陥っても落ち着いて大崩れすることがない。その安定感は将としても得難い資質だった。

また、秀長は誰もが認める人格者でもある。 一時の感情に走ることなく、他人にはいつも穏やかに接した。 細かい配慮も欠かさない。四国征伐のように諸将が集まった寄り合い所帯の連合軍では、そのまとめ役としても最適である。豊臣政権が発足すると、この人格者はさらに必要とされる存在となってゆく



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