小早川秀秋は優柔不断で気弱と見せかけてじつは計算高かった
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小早川秀秋
優柔不断な凡将ではなく実際はかなりの切れ者だった
1.
冷酷度4
腹黒度5
変態度1
鬼畜度2
優柔不断で気弱というのが定説になっている小早川秀秋だが、これが意外と計算高いヤツだったのかもしれない。
彼は秀吉の妻・北政所の兄の五男。普通に考えれば、小早川家を継いで30万石の大名になれただけでもラッキーだっただろう。
たしかに秀吉の養子にはなったが、後継者は関白となった豊臣秀次に決定していたので、淀殿が秀頼を生まなくとも彼の目はなかった。それだけに秀頼や淀殿を恨む理由はないし、彼を小早川家の養子にするために尽力した石田三成を恨んでもいないはずだ。
秀秋の裏切りで勝敗が決した関ケ原も、遺恨による線は薄い。そこには、戦国武将として考え抜いた末の計算が働いていたはずだ。
たしかに逆上して家臣を手打ちにするなど、時々暴れてはいたようだが、信長や秀吉にだってそういった凶行はある。しかし、それを理由に信長を暗愚とはいわないだろう。
実際、私生活では少々アブないところはあっても、政治のことでは失敗せず大領をそつなく治めている。
また、朝鮮出兵における攻防戦では、敵に包囲されて窮地に陥った加藤清正の軍勢を救出して、なかなか戦上手なところもみせている。少なくとも戦場においては、それなりに指揮のできる男だったはずである。
さて、問題の関ケ原合戦。彼はキャスティングボードを握るに充分な1万6OOO人といわれる大軍勢を率いて決戦場にやってきた。
本来なら西軍の各将にとっては心強い味方であるはずが、石田三成や大谷吉継など西軍首脳には、敵以上に警戒すべき不気味な存在だった。この期に及んでもどっちの味方なのかがハッキリしないのだ。
一応、西軍に属した形にはなっているが、戦略的要地の松尾山に入り、山中にいた西軍の緒隊をそこから追いだして寄せつけようとしない。その態度には、かなり不審な点が目立っていた。
関ケ原での裏切りは自分を高く売り込んだだけ
2.
また、秀秋は東軍との密通も噂されていた。実際、秀秋と家康の間では密書のやり取りがあり、家康は内応の約束を取りつけていたが、東軍陣営でも
その約束にはかなり疑いをもっていた。
「小早川はホントに約束を守る気があるのか?」そのため、家康は家臣を密かに小早川隊に派遣して、裏切りのお目付役として置いたという。
西軍にとっても東軍にとっても、小早川隊は味方とは言い難い。まるで、そこだけ西軍でも東軍でもない第三の勢力が陣取っているような感じとでもいえばよいだろうか。
だが、秀秋は意識してこの状況をつくりだしたのかもしれない。彼を味方に引きいれようと両陣営から次々に好条件が提示され、三成などは秀頼が成人するまで彼に関白の地位を与えるとまで言ってきた。
どちらの味方か不鮮明な大軍が戦略的要地に居座ることが、自分を高く売るには最良の方法。しばらく高見の見物を決め込んでいたとしたら、かなりの策士である。
家康もこんな若造にいいようにやられてイラついていたのだろう。癇癪をおこして鉄砲を撃ちかけ参戦を催促。そろそろ頃合いと、小早川隊が山を降りて西軍陣地に殺到したところで、関ケ原合戦の勝敗は決した。こうなると、家康も彼を戦いの功労者として遇さねばならず、所領は倍以上に。
70万石近くを領有する大大名となった。
ただし、関ケ原合戦から2年後に彼は若くして急死。関ケ原での裏切りの贖罪による心労が原因といわれるが、彼が我々の予想するような非情な策士であれば、それはないだろう
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