福岡県・福岡城|天守を造らなかった理由とは

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福岡城(福岡県福岡市中央区城内)

福岡城はわざと天守を作らなかった?
1.福岡城について
慶長5年(1600)の関ケ原合戦で東軍の先鋒となり、また西軍諸将の裏切りを誘った功績で戦後筑前一国を与えられた黒田長政は、それまで小早川氏の居城であった名島城に入りました。

しかし、この城は三方を海に囲まれ、後背地も城地も狭く、防衛的にはすぐれているものの、城下を含めての近世城郭としては問題がありました。そこで福崎の地に新城を築くことになりました。

同6年、石積みの名人といわれた野口一成を普請奉行として築城を開始します。築城石材は古墳や元冠防塁を壊して使用しました。7年後に完成した城は、内城面積24万平方メートル、外郭の北は博多湾、西は草香江、東は那珂川、南は肥前堀などの堀で、城地面積50万平方メートルという壮大なものとなりました。

櫓は、多間櫓・潮見櫓・月見櫓・花見櫓など大小47棟、門は10棟と天守台が建てられましたが、天守の建造は、最初から計画されていませんでした。どうやら幕府に対する遠慮があったようです。そして城地の名を、黒田氏発祥の地とされる備前邑久郡福岡村にちなんで、福岡と改めました。

その形状から、舞鶴城とも呼ばれた城跡は、国の指定史跡であり、現在は舞鶴公園として開放されています。中は広く、一周するのにも時間がかかります

福岡城は黒川長政により関ヶ原合戦後に築かれた今も本丸の一段高いところに、25メートル×22.5メートルの大天守台と、これに付属する小天守台の石肛が残る。おそらく津山城のような天守曲輪を形成する予定で、この石垣が構築されたのではないだろうか。

つい最近まで「福岡城に天守建築がないのは、黒川家の幕府に対する遠慮である」といわれ続けてきた。ところが、最近の研究によると、慶長7、8年に「天守の柱立て」が行われたことが判明。そして元和6年に天守が取り壊されたことが明らかになったのである。

天守の形や構造については詳しい資料が見つかっておらず、なんともいえないが、天守地階にあたる石蔵跡には6列×9列の礎石脈が残ることから、大天守は初屑平面が8間×11間以上の大きさであったと推定できる。

2.九州最大規模の城といえば、現在の福岡県福岡市にある福岡城だ。
この城は、軍師として有名な黒田官兵衛が、息子の黒田長政とともに築いた城である。官兵衛から黒田家を継いだ長政は、関ケ原の戦いでは東軍として戦果をあげる。その功績が認められ、長政は筑前52万石という広大な領地を与えられた。九州諸大名の加勢もあり、総面積24万m2を誇る九州最大級の城郭となった

その領地を治めるべく長政は1601(慶長6)年、当時すでに貿易港として栄えていた博多にも近い土地に新たに福岡城を建てる。

現在でこそ埋め立てられてしまったものの、築城当時は博多湾に面していた城は三角形の敷地をしている。さらに、その姿は鶴が羽を広げているように見えるところから「舞鶴城」とも呼ばれる雄大さで、「内城」と「外城」とに分かれるほどの大規模なものだった。

ところが、城の大きさに反してこの福岡城には天守が建てられていない。
その理由には、名将と呼ばれた黒田親子ならではの気づかいがあった。

どれほど家康に認められたとはいっても、黒田家はあくまで外様大名。徳川の家臣の中での位はさほど高いものではなかった。
そこで、城が目立ちすぎて幕府から目をつけられないように、あえて天守は造らなかったというわけだ。

近年、福岡城に関する噂を記した文書が発見されたことで。天守は一度は建てられたものの、官兵衛が破壊したという説が浮上している。

いずれにしても、強大な力を持った徳川家に対する黒田家の気づかいを感じさせるエピソードであることには違いない。

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