中国・四国の城 一覧表|日本全国お城情報
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中国・四国 城リスト
久松山の山城と麓の城から成る鳥取城
鳥取県鳥取市東町、栗谷町、百谷町、円護寺町
築城者:山名誠通、池田長吉
遣構: 天守台、石垣、堀
鳥取城は天文14年(1545)、因幡山名氏14代誠通が、天神山城の出城として久松山山頂に構築したのが始まりといわれています。山名氏17代豊国の時代、はじめは毛利方でしたが、羽柴秀吉の因幡攻めが始まると、豊国は秀吉に下ってしまいました。これに不服だった家老たちは、豊国を城から追い、毛利方へ城主の派遣を求めます。すると毛利方は吉川経家を送ってきました。
秀吉の鳥取攻めが開始されたのは、天正9年(1581)のことです。城の周囲に厳重な包囲網を敷き兵糧攻めをします。4ケ月後、飢餓状態の下で経家は切腹、部下の助命を願いました。
江戸時代に入って時の城主池田長吉は、山上の住居が不便なため、中腹に二の丸を築いて城地を広げ、外堀を拡張します。明治時代に建造物はすべて壊されましたが、山上に天守台・車井戸跡、西麓に二の丸・天球丸・馬場跡の石塁や石垣などが残っており、昔を偲ばせてくれます。
その遺構は、戦国騒乱期の山城から近世の平山城・平城への移行過程を示すものとして学術的にも貴重とされ、東方の、秀吉が鳥取城攻めの時に陣を構えたという太閤ケ平を含めて、国の史跡に指定されました。現在城跡は久松公園となり、県立博物館などもあって、市民の憩いの場として親しまれています。
鳥取城は徳川幕府の信任が厚い池田光政(徳川家廉の女婿池川脚政の孫)が元和3年(1617)に入城した本格的な山城である。近世大名が山城を戦国期から引き続き用いるのはきわめて珍しいといえる。
光政は32万石を領し、寛永9年(1632)には従兄弟の光仲がいる岡山城に入り、鳥取城には光仲が入った。以来明治を迎えるまで、鳥取城と岡山城は池田家の居城であり続けた。池田輝政は鎮西将軍を名乗ったように、豊臣恩顧大名のいる西国への徳川方の軍略拠点を担った。
その子孫もまた同様に山陰と山陽双方で、西阿外様雄藩を睨んでいたのだ。鳥取城といえば、羽柴
秀吉が毛利氏の将兵が楯籠る当城を干殺し戦法で落城させた史話で有名だ。当時の鳥取城は標高264メートルの久松山山頂から中腹にあった山城で、秀吉は城の南側太閤ヶ平に本陣を構え、兵糧攻めを行った。
霊亀山山頂の豪壮な石垣津和野城
島根県鹿足郡津和野町大字後田ほか
築城者: 坂崎成正
遺構: 石垣、櫓
2.三本松城、あるいは蕗城といい、津和野盆地の西、標高367メートルの城山山頂一帯に築かれた山城です。
町の中央を津和野川の清流が南北に貫き、川沿いの盆地内に良好な形で保存された城下町が広がる津和野城。川に架かる御幸橋のほとりに馬場先櫓が残る。
弘安の役(1281)の勲功により、西石見守護職に任じられた吉見頼行が、永仁3年(1295)に築城に着手、30年の歳月を費やして、二代頼直の代の正中元年(1324)に完成しました。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦に吉見氏は西軍に味方したため敗れて長門へ移り、後に浮田直盛が入封します。直盛は名を坂崎成正と改め、城の改築を始めました。北側に出丸を築くなどして、石垣を用いた堅固な山城に改造しました。
天守もこの時設けられましたが、貞享3年(1686)の落雷で焼失、その後は再建されていません。成正は千姫事件により元和2年(1616)に切腹を命じられ、堀崎家は断絶、翌年亀井政矩が入封してきます。
城地は山頂にあり、津和野川が西麓南麓、東麓と回って山麓を洗い、天然の内堀を形成していました。城下町は東麓の一帯に配置され、出雲・石見と周防・長門を結ぶ山陰道が通っています。川と山の間の余地が居住地区にあてられ、川の屈曲により北部に町屋、南部に侍屋敷が造られていました。
緑に囲まれた城域見どころは山頂の豪快な石垣ですが、堀割のある城下町も独特のたたずまいで、撮影の好ポイントです。
完成期の近世城郭形式を残す津山城
岡山県津山市山下
築城者: 森忠政
遺構石垣、天守台
3.建物こそ残っていないが、いまに残る見事な高石垣が特筆される城郭技術として国の史跡に指定されている津山城。この城は森忠政によって築かれた。
慶長8年(1603)、信濃国川中島城主・森忠政は美作国に封ぜられて入国しました。はじめ院庄に築城を計画して工事に取りかかります。ある日、重臣井戸宇右衛門が普請の監督している現場に、忠政の内室の弟である名古屋山三が来合わせました。
この2人は以前から仲が悪かったのですが、ここで突然口論から決闘となり、2人とも傷ついて死んでしまいます。そんな事件もあり、院庄よりは鶴山の方が国の中央にあるとも思われ、政治経済など諸般に適地であると考え直した忠政は、鶴山の山名氏旧塁跡に築城を始めました。起工から13年、元和2年(1616)に完成します。
本丸を中心とした平山城で、二の丸・三の丸や馬場を輪郭内に定め、麓に広く総曲輪を配しました。本丸は約1万1537平方メートル。建物が31棟、門が15棟、城主の居館や表御殿があります。本丸内の西部を区切って天守曲輪とし、明治初年ごろまでは台上に4層5階の天守がそびえていました。
明治33年(1900)、城跡は津山町有となり、鶴山公園として公開され、市民の憩いの場として今日にいたっています。昭和38年に史跡に指定されました。
今も城跡は、
石垣の見事さとともに、園内5000本の桜ソメイヨシノをはじめ、四季折り折りの風光はすばらしく、名勝として広く知られています。桜の季節になりますと、小高い城跡全体が淡いピンク色に包まれ、多くの市民で賑わいます。
津山城もまた平成17年(2005)に築城四百年を迎え、これを記念して、備中櫓が復元された。
この備中櫓の内部は純然たる書院造で、仕上げも櫓建築特有の納戸造ではなく、数寄屋書院を一部に取り込む、本格的な造営である。旧状を伝える指図のとおり今回復元したのである。一階に本格的書院と茶処があるほか、二階には格天井の上段間があって、みごとな意匠を呈する。
今に残るみごとな高石垣は、特筆される城郭技術として国の史跡に指定されている。津山城の石垣は実に美しく、また壮大、繊密。ことに本丸月見櫓周辺の石塁は10メートル余もあって、日本一の高さだ。この城は18万石の美作国太守として慶長8年に入部した森忠政が元和2年に築いた。
海陸路の要衝の地に建つ福山城
広島県福山市丸之内1丁目8番
築城者: 水野勝成
遺構:櫓、門、本丸・二の丸の石垣、鐘楼
4.築城は徳川家康の従兄弟である水野忠重の子勝成によるもの。
外観復元ではあるが五層造りの天守や、現存する三層の伏見櫓やニ重の櫓群が、高石垣上に並び立つ大城郭である。勝成は、
徳川家康から備後・備中両国を与えられて入国し、新城建設の候補地として桜山・蓑島・常興寺山の3案のうち、常興寺山に築城することに決しました。
築城に際して、伏見城の筋鉄御門・御湯殿・松之丸御殿・火打櫓・月見櫓・追手御門・能舞台・多聞のほか、3基の橋などが移築されています。
城地の最高所に本丸を置き、北隅に五層五階地下一階で二層三階の附櫓と多聞櫓を持つ複合式天守を設けました。初層と二層は比翼入母屋造で、ほかの層には千鳥破風や唐破風が付いています。最上階は高欄付きの縁を巡らし、物見の段と呼ばれます。南側に伏見御殿、西南隅に伏見櫓本丸の入口に筋鉄御門を配置しました。
現存する伏見櫓筋鉄御門は重要文化財に指定されており、再建されたものに天守・御湯殿・月見櫓・鐘楼などがあります。天守は昭和41年に再建されたものです。
なお、天守内部は博物館になっています。天守前の城内広場は、かつて藩主の起居する伏見御殿でしたが、今は市民の憩いの場として開放されています。春には桜の花見、夏には盆踊りが行われ、秋には菊花展が催されます。
山陽新幹線で旅をすると、福山城と姫路城の車窓からの眺姿が印象に残る。新幹線ができる前の在来線の時代、黒煙をあげるSL列車の窓から見た、福山駅に被いかぶさるようだった豪壮な白亜の伏見櫓と筋鉄門の景観が、柵川を訪れるたびに思い出される。新幹線は在来線上の高架の駅だから、城が被いかぶさることがなくなったのだ。
JR駅構内は城の二の丸にあたり、駅ホームに接する石垣が本丸である。現存する伏見櫓、筋鉄門のほか、第二次大戦の空襲で焼失した天守などが、コンクリート製で外観復元されている。この一連の再築建築群が、新幹線ホームと新幹線の車窓からの目の高さ、視線とちょうどよい位置にあり、旅の途上に福山城の威容がまさに一望できるのだ。
城は、元和8年(1622)から水野勝成により築かれた。築城にあたり幕府は1万2600両の金、380賀目の銀を下賜、さらに城大工棟梁福井正次、渡辺吉次をはじめ、大鋸引、細工などの職人を福山に赴かせた。福山築城が幕府の大きな戦略の一端を担っていたからだ。
岩国城(山口県岩国市横山)
5.岩国といえば錦帯橋で知られる。この錦帯橋は、岩国城惣構の大手口に架けられた橋である。今も橋を渡ると、大変落ち着いた佇まいの武家屋敷街が残る。岩国城は錦帯橋からは枇山という小高い川の上に天守が望まれ、その位置を確認できる。山城であって、しかもすこぶる険峻な山にある城郭だった。
この堅固な山城は城主吉川家により自主的に破却され、吉川家は麓香神社となっている土居に陣屋をつくり移った。吉川氏は小早川氏(三原城主)と共に毛利両川(吉川と小早川)を形づくる家で、主家毛利氏を支える位置にあった。
関ヶ原合戦では毛利輝元が両軍の総大将でありながら、吉川広家は
徳川家康に通じ、小早川秀秋は形勢不利とみて戦場で寝返り、徳川方を勝利に導いた。主家毛利氏が近世大名として残ったのは両川の支えがあったからだ。
萩城(山口県萩市堀内)
日本海に突出する形でそびえる萩の指月川が萩城の戦略的な中心だ。この城は、中心部の指月山山頂に天守はなく、麓に本丸という区画をつくり五層の天守をあげた。この天守は多くの古写真でその雄姿をしのぶことができる。
すなわち萩城は、山城である指月山を一朝事ある時の詰の城とし、山上と中腹に二重櫓を並び建てた。本丸は居舘で、ここに五層五階の天守を構えた。白亜総塗込めで、初層は石垣より大きい平面であり、石垣から出張った部分が石落となるつくりであった。二層目に大入母屋を配し、最上階は高柵と姻縁のある望楼であった。天守をはじめ建物は文久3年(1863)から取り壊され、今は石垣のみが残る。
関ヶ原の遺恨を秘めた萩城
山口県萩市大字堀内
築城者: 毛利輝元
遣構:天守台、大内堀・外堀、石垣
慶長9年(1604年)萩の指月山に新城は着工された。4年後の慶長13年に完成した萩城は、日本海に浮かぶ標高143mの指月山を背に、本丸、二の丸、三の丸を構えた城で、背後の指月山を詰の丸とした三方を海に囲まれた要害であった。
山頂詰の丸に櫓を建ち並べ、本丸には五層五階の天守をあげ、そのほか数十もの櫓が建ち並んだが、明治維新後に全てが解体され、城郭建築はひとつも残されていない。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦に敗れ減封された毛利輝元は、安芸広島から長門萩に移封されます。萩指月山に新城を築くことになりましたが、その地は湿地帯だったので、まず埋立て作業から始まったといいます。同9年に着手し、同12年に完成しました。
城は指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸・二の丸・三の丸・詰丸からなっていました。本丸は指月山麓に、東西約200メートル、南北約145メートルの規模があります。
高さ14.5メートルの五層の天守を持ち、藩主の邸宅や役所、櫓が5ケ所もありました。二の丸は東西約278メートル、南北約106メートルで、櫓13ケ所があり、この内部一帯を「お城内」と呼んでいます。
三の丸は二の丸の外側にあり、外堀で城下町と区別されます。東西は約981メートル、南北665メートルで、御蔵元などの役所や重臣の屋敷が置かれていました。堀内と呼ばれ、総門が3ケ所ありました。
城の東側一帯は萩の城下町です。江戸時代に建てられた白壁や土塀に包まれた町並みが、そのまま残されている場所があります。江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋横丁などです。
関ヶ原合戦の遺恨を引き継ぎ260年余り、藩府が山口に移されるまで、萩城は毛利氏の牙城であり続けました。
徳島城(徳島県徳島市徳島町城内)
6.羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝の子家政が四国征伐ののち天正14年(1586年)から築城。完成には25年を費やした大工事だった。特徴である緑色片岩の石垣は見ものです。
JR徳島駅の構内に隣接していのやまと呼ぶ丘がある。徳島城本丸跡で標高61.9メートルの丘だ。普通、山上や丘の頂に天守をあげるが、徳島城の場合はいのやま山頂でなく、中腹部と三の丸大手、脇に二つの天守建築が構えられた。いのやま中腹の東二の丸の天守は大入母屋を初居に構えた三層づくり。
大子、脇のもう一つの天守建築は太鼓榊と呼ばれ、三層四階で最上階には廻縁と高欄が望楼を形づくっていた。この二つの天守建築のほか、大手の太鼓梢の反対側(東側)にも二層三階で望楼の廻縁高欄がのる月見櫓が構えられていた。いの山山頂に登ると、みごとな石垣が本丸を囲んでいる。
この石垣は野面減みで、見るからに力強く組まれている。石材は阿波から紀伊水道にかけて産出される緑泥片岩と呼ばれる通称「青石」である。石垣の積石は大きく、本丸西側から西二の丸にかけての石垣は高石垣となっている。
堀に海水をたたえた水城高松城
香川県高松市玉藻町2番1号
築城者:生駒親正
遺構:櫓、門、石垣、堀
7.高松城は、天正15年(1587)讃岐に封じられた生駒親正が、黒田孝高(如水)の縄張で築城し、同18年に完成させた水城です。生駒親正が讃岐17万石に封じられたのは、天正15年(1587年)。秀吉が島津攻めを終え、西日本を平定した年であった。
生駒綬正の使命は、水軍拠点の築造にあった。
堀割は海につながり、水門を設けてつねに水面が一定に保てるようになっていました。その姿は「讃州さぬきの高松さまの、城が見えます波の上」という俗謡に残されています。
寛永19年(1642)からは徳川光国の甥にあたる松平頼重が入封しました。高松城はこの時に大規模な改修工事が行われ、天守が建てられました。3層5階の天守は、その最上部が平面的に張り出す「南蛮造」の様式を持つめずらしいものでした。これは明治17年(1884)に破却されています。
さらに、北の丸・東の丸といった海側の曲輪が補強されて、特に北の丸新曲輪へは、月見櫓・続櫓・水手御門・渡櫓などを増設し、海防面を強化しています。そして屋島の東にあたる庵治に水車を備え、軍港としての機能も与えました。
高松藩松平氏は、明治元年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に参陣し朝敵となりましたが、その後官軍に恭順しました。現在は玉藻公園として、月見櫓・艮櫓などの建造物と石垣・堀の一部が残されていますが、ほかに二つの築山を中心とする枯山水庭園、旧藩主の住居である披雲閣、そして高松城に関する資料を展示している陳列館があります。
本四架橋ができるまでは宇高連絡船で山国に入った。高松港が近づくと、純白の着見櫓(月見櫓とも記すが、船の到着を監視する櫓なので着見櫓が正しい)が瀬戸内海に映え、連絡船は高松城の二の丸前に接岸した。
今ではフェリー専用港がこの着見櫓のすぐ前にあり、桟橋には二層の模擬櫓が建っている。この模擬櫓は、城下の時の鐘を移し、吊るして展示しているものだ。着見櫓は、実に浦酒な外容をしている。着見櫓に隣接して水の手門があり、着見櫓からこの水の手門にかけて水濠がある。この水濠はかつての玉もの浦の一部で、玉藻とは高松城の別名「玉藻城」に用いられる高松の海を表現する枕言葉でもある。
藤堂高虎の海城今治城
愛媛県今治市通町3-1-3
築城者: 藤堂高虎
遺構: 石垣、堀
8.関ヶ原合戦で戦功のあった伊予宇和島8万石の藤堂高虎は、伊予国府12万石の加増を受け、これまでの居城であった宇和島から、国府に移ることになりましたが、国府城は手狭なので新城を設けることにします。その地を今治としました。
当時の今治は瀬戸内海の交通の要衝の地であり、水車を率いる高虎にとって、城地選定に海を配慮したことも当然といえます。
城は北側に瀬戸内海をひかえ、東南西を三重の堀で囲み、堀は海水。本丸・二の丸のある主郭部には四隈に櫓を置くが他の櫓は北側に片寄り、海を強く意識した構成です。
この城の堀は、内堀、中堀、外堀と三重に巡らされ、すべて水堀で、瀬戸内海の海水が引き入れられ、巨大な海城としての性格がかなり強いものでした。慶長13年(1608)ごろには御殿や櫓もそろい、宇和島から入城します。しかし同年、高虎は突然伊勢・伊賀へ転封となり、養子高吉が在城しましたが、寛永12年(1635)から松平氏が入り、明治維新まで続きました。
昭和54年に5層6階の天守や櫓門、多聞櫓、武具櫓、土塀などが復元されています。
天守は鉄筋コンクリート造り瓦葺きで、最上階が展望台、以下は歴史資料などの展示室になっています。櫓門は木造二階建て瓦葺き、地場産業の展示室となっています。多聞櫓は鉄筋造り一部木造の平屋建て瓦葺きで、今治地方の自然科学資料などの展示室です。武具櫓は木造二階建て瓦葺きで、内部は茶室です。
瀬戸内を望む白亜の大天守は、澄み切った空に雄大な姿を示しています。
今治城は吹揚浜に築かれた本格的な海城である。幅広い水濠は瀬戸内海の延長であり、濠と海の接点には、軍港であり商業港でもあった船人が設けられていた。
今治は瀬戸内海交通の要の一つだ。九州方面から関門海峡と豊後水道を航行する船は今治の北で激しい潮流に巻き込まれる。
伊予灘から獺戸内海に入るところで高繩半島が北に大きく出張り、広島県三原から竹原側の中間には大三島、因島、大島が浮かぶいわゆる来島海峡だ。ここで船を操るには水夫の存在が不可欠である。潮流に乗る技術を修僻していない者が操ると、船は真っ二つに折れてしまう。この水先案内人である水夫を束ねたのが三島村上水軍であった。
安芸城(高知県安芸市土居)
9.安芸城と表記したが、安芸城という城はなく、正式には「安芸土居」である。土居とは士居構のことで、山内氏の土佐一国支配の地方の政治拠点をいう。江戸時代を通して「元和一国一城令」及び「武家諸法度」により、幕府は大名の領国ごとに一城の存在を認め、一城以外の城はすべて破却対象とした。
しかし、伊達氏領国、島津氏領国、山内氏領国は、特例として、城と呼んではならない城づくりの支城の存在を認めた。伊達氏領国内の要害、島津氏領国内の麓、山内氏領国内の土居である。
伊達氏領国では豊臣政惟に大反乱を起した葛西・大崎一摸と九戸政実の乱の再発防止のため二十一要害が、品津氏領国では薩摩・大隅・日向と南方離島群支配のため百十余の麓(外城)が、土佐では長宗我部の旧臣たちを押さえるため、高知城の実質的な支城として、ここ安芸土居と窪川、本川、宿毛佐川、中村の五カ所、計六カ所の土居が認められた。
安芸土居は慶長6年(1601)、土佐に入国した山内一豊の家老五藤為重によって描えられた。為重は安芸を中心に千百石の知行を領していた。この五藤氏の子孫が土居の居舘主として明治へ続いた。