大阪府・千早城|10万以上の幕府軍を数百の兵で撃退した難攻不落の要塞

更新日:

こやしで敵を蹴散らした千早城の秘策とは?

こやしで敵を蹴散らした千早城の秘策とは?
大阪の南東部にそびえる府内最高峰の金剛山。その厳しい地形を利用して築かれた山城・千早城で鎌倉時代末期、10万以上といわれる幕府軍をわずか数百の兵で撃退した戦いが繰り広げられた。

「鬼神」と恐れられた武将・楠木正成の、当時の武士の常識をくつがえしたといわれる奇想天外なゲリラ戦法とはいったいどんなものだったのだろう。

後醍醐天皇の討幕計画に応じて、討幕の旗をあげた楠木正成は自らが築いた千早城に立てこもり、幕府軍に抵抗を続けた。

10万以上ともいわれる軍勢で千早城を取り囲んだ幕府軍は、「正成め、この小さな城で何ができよう」と、誰もが自軍の圧勝を信じて疑わなかった。

ところがこの千早城は、三方を谷に閉まれた難攻不落の要塞だったのだ。
楠木軍は幕府軍を引きつけて、山をよじ登って襲いかかってくる敵に対して次々と丸太や巨大な岩、そしてこやしまでも投げつけて谷底にたたき落としていった。

また、幕府軍は巨大な梯子を使って攻略しようとしたが、それに対して楠木軍は水鉄砲で油を浴びせ、火をつけて梯子もろとも焼き落とした。

しかも、千早城には二重の城壁が築かれており、敵軍が外側の城壁をよじ登るのを待って、壁もろとも一気に直下につき落としてしまったのだ。
こうしておよそ3ヵ月の間、楠木軍は幕府軍の攻撃をしのぎきり、ついには撤退させることに成功した。

正成の手段を選ばないゲリラ戦法を前に、一対一で正々堂々と戦ってこそ武士、という当時の常識はもろくも崩れ去ったのだ。

この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!
ナビ
Page Top