安国寺恵瓊は父の仇である毛利氏の外交を一手に担った現実主義者

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安国寺恵瓊

戦術2
知力9
政治力9
忠誠心5
運3

毛利氏は父の仇なのだがそれを封印して外交官に
1.安国寺恵瓊は僧でありながら、毛利氏の外交を一手に担った人物である。清和源氏の血筋にも通じる安芸武田氏が出自だといわれるが、父といわれる武田信重は毛利元就に攻められて滅亡。幼い恵瓊は命からがら落ち延びて、安芸安国寺に匿われる。その後、出家して恵瓊を名乗り京の東福寺で修行した。

天正二年(1574)には安芸安国寺の住持となり、さらに、東福寺住持に。秀才が集まる僧の世界で頂点を極めた人物だけに、頭脳が明晰だったのは間違いない。

この頃、畿内をほぼ制圧した信長の勢力圏が毛利氏の支配領域にも広がりつつあった。毛利氏としては、信長との外交交渉のできる人材を必要としていた。

そこで白羽の矢が立ったのが恵瓊である。京で長年暮らしていた恵瓊は朝廷などに太い人脈もあり、畿内の情報にも詳しい。毛利氏は京における外交を恵瓊に一任した。

しかし、恵瓊にとって毛利氏は父を殺した仇、当然、わだかまりはある。が、恵瓊はこの要請を快諾する。もともと陽気な酒豪で、きっぱりとした気性の人物だったという。また、過去の恨みよりも将来を重視する未来志向の現実主義者だったのかもしれない。

恵瓊はさっそく堺へ赴き、織田軍の中国方面担当の大将・羽柴(豊臣) 秀吉と会見して出方をさぐる。果敢で行動力もある。いかに敵方の人物とはいえ、僧侶が斬られることはまずない。

恵瓊は自分の身分を利用して、敵地にも堂々と乗り込み相手と折衝した。 このように積極果敢な外交戦術は、この後も彼の真骨頂となる。また、剛胆なだけではなく人物の鑑定眼も鋭い

「信長は五年ともたないだろう。その後、秀吉の時代が来る」
と、本能寺の変が起こる遥か以前から、信長の苛烈さがいつか災いを招くことを見抜き、秀吉がそれにとって代わる逸材であると予見したのである



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