兵庫県・明石城|瀬戸内海の絶景が見れて灯台の役割もあった
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明石城(兵庫県明石市明石公園)
山陽新幹線明石駅前に、実に均整のとれた櫓が2基、石垣上にそびえ立つ明石城祉。このふたつの櫓は三層三階の白亜総塗込めで、まばゆいばかりに南を向いて建っている。
築城は元和5年(1619年)、徳川幕府の命により姫路城主本多忠政ら西国外様らが助役を命ぜられる天下普請によって築かれた。
姫路城とともに西国と山陽道の押さえとして徳川の白旗にちなみ純白の壁画で仕上げられ、鶴の城と雅称された。
平成7年に阪神・淡路を襲った大地震で、明石城も大きな被害をこうむった。本丸高石虹上にそびえ立つ二つの三層
櫓である川櫓と巽櫓が共に
石垣から大きくずれ、崩壊の危険が生じたのだ。文化庁と県・市は、石垣から解体して大規模修復をなし、三層檜が再建された。
地震から甦った二つの櫓は、地震前に比べると、容姿というか、印象が大きく違っている。その一つは本丸石塁上、すなわち坤檜と巽櫓を結ぶラインに土塀が復元され、二つの三層櫓がつながる型となったこと。もう一つは、二つの三層櫓が共に純白でピカピカに輝いていることだ。
こうして白亜総塗込めで眩いばかりに南を向いて建っている二つの櫓は、明石海峡からの景観を意識している。
潮流の激しい瀬戸内の難所の一つである明石海峡を往来する船は、灯台がわりに明石城の白亜の櫓を利用していた。
明石城は近世的な配置
将軍の命による築城は1617年、二代将軍秀忠は松本城主小笠原忠真に明石(現兵庫県) への所領換えと築城を命じた。その際、築城に関して、忠真の妻の父にあたる、姫路城主。本多忠政に相談するよう助言している。
そこで忠政は、自ら明石に出むいて土地を探し、万葉集の歌人・柿本人麿を祀る人丸神社の地に築城することを決定、神社は東方の丘へ移し、1619年には着土している。
その場所は、瀬戸内海の明石海峡を望む絶景の海辺であり、現在は、明石海峡大橋で淡路島と結ばれている。明石海峡は非常に幅が狭く、潮の流れが速い航路の難所として知られる。
この場所に、翌1620年、本丸、二の丸、三の丸、北の丸、居屋敷曲輪、山里曲輪からなる明石城の完成をみた。現在はJR明石駅前に、明石公園としてその遺構がのこされている。
城の内外には、堀が巡らされ、城主の生活の場、居屋敷曲輪を内堀が取り囲んでいた。また本丸、二の丸、三の丸、居屋敷を囲む中堀が取り囲み、その外側に家臣屋敷地が設けられ、さらに外堀が取り囲んでいた。そして当時は、その外側を通過する西国街道まで海辺が及んでいたという。
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